昨日はよく寝た。というか、先週の盆明けが激務で、正直くたくただった。今日はさすがに我慢できず定時に帰宅した。しかし、自分のことならいざ知らず、部下の尻拭いは疲れるのー。しこたま怒られたし。あーあ。
先週訪れた阪急今津線沿線の旅のあと、京都にも立ち寄りたくなり京都に行く。最近関西に行くことがあっても、大阪・神戸が中心で、京都はスルーしていたのだが、植冶(小川冶兵衛)の庭を見てみたくなり、無鄰菴と平安神宮に行く。
京都で4年間生活していたとはいえ、御室方面に住んでいたこともあり、岡崎のこの辺りはあまり来た記憶がない。学生のころは植冶のことも知らなかったし。今の会社に入って、京都造形芸大卒の女の子が「植冶の庭」(尼崎博正編)を持っていたのを見て初めて知りました。
天井の低い入口から中に入る。
東山を借景に、琵琶湖疏水の水を遣水として用いた大胆な川の流れと、京都ではほとんど見かけない芝庭にすることで、当時としては斬新な、和洋折衷の庭園となっている、といった表現がこの庭の評価としてよく用いられるフレーズであろう。
水の量が多いのと、水がきれいな点、芝庭など流れ以外の部分との高さがあまりなく、流れが非常に浅いというのは確かに感じるところである。
川の水が増水しても大丈夫なのだろうか。疏水の水は量が一定だから大丈夫なのだろうか。
芝庭にしているところは、良いといえばよいし、といったところか。京都以外の、たとえば岡山後楽園や水前寺成趣園などは江戸時代から芝だしなー。和洋折衷か否かといわれると当時に振り返らないとよくわからないかもしれない。ただし、芝庭にすることで、暗くなりがちな庭園が明るくなり、東山の借景を取り入れるのには適していたのかもしれない。
個人的に気に入ったのがこの苔。普通の苔(ゼニゴケ、スギゴケ)よりも白っぽい苔で、初めて見た。
この庭のいいところは、先ほど挙げたような部分もあるかもしれないが、いい意味で自然なところ、コテコテしていないところ、作りこみすぎていないところかもしれない。流れの中にたくさんの石がちりばめられているが、石を置いたというのではなく、ちりばめられているという表現が適当なくらい、自然な配置となっている。人工の庭なのだが、ありのままの自然の良さを表現しているといったところか。それだけではないだろうが、何とも言えない心地よさを感じる。
滝にせよ、飛石にせよ、さほど派手な演出はないのだが、かえって上品さを感じる。
母屋のところで、庭師らしき60~70代の男性と、孫ほどの年の差の男性が座って、年配の男性がこの庭の説明をしていた。やがて、一通り話し終えると、誰に遠慮するわけでもなく、縁側で横になって昼寝をはじめだした。確かにそうしたくなる庭である。ここで昼寝すると気持ちいいと思う。あえて西洋の文化を取り入れたとするならば、この「アメニティ」の概念をうまく具現化したとはいえるかもしれない。